紅白

年末に紅白歌合戦を見ていて、ふむ〜と思う所があった。吉永小百合の戦争に関する詩の
朗読のところだ。まあ、自分は朗読もそうだが、パイプオルガンの奏者とメロディーにも
なかなか味を感じたのだが。
NHKとして、例年と違う試みをしたということだろう。


後で色々考えてみたが、朗読されたのは峠三吉原爆詩集の「序」と、栗原貞子の「生ましめんかな」
だった。イデオロギーは色々人それぞれあるだろうが、自分は「序」で「ちちをかえせ
ははをかえせ」とやったのなら、栗原貞子の詩は「生ましめんかな」よりは「ヒロシマというとき」
を、朗読してほしかった。むろん、今、中国や韓国との関係が悪化している中、NHKが
そんなものを朗読したら、かなり話題になりそうだ。


その詩を一応抜粋しておこう。自分はこの詩の意見に、全くそのとおりとも、間違っている
とも思わない。ただ、1970年台にこういうものがあるにも関わらず、未だ中国や韓国と
戦争補償問題が終結していないのは、過去の政治家の怠慢ではないかと思っている。
小泉はある意味、本来オブラートで包んで、できれば中身の苦い薬を味わいたくなかった、
政治家と対照的で、「どうだ苦いだろ〜」と言いながら薬を進めている政治家に思える。
靖国神社参詣で個人の思想と国家の責任や方針を混同してしているのに、なぜか国民には
受け入れられている。ここまで来たなら、小泉はとことん中国・韓国の首脳と話をし、
この問題を終結してもらいたいものだ。
むろん、中国や韓国はこの問題を将来の外交カードとして取っておきたいだろうから、
なかなか乗ってこないだろう。ここぞ、小泉のしつこさを発揮して推し進めてもらいたいものだ。


ヒロシマというとき』

ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー
ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺
ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ

ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ

ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマ
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能
灼かれるパリアだ

ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

(『ヒロシマというとき』一九七六年三月)